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アクセシビリティ設計に関する記録

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「みんな」という言葉のイメージ

「みんな」という言葉の落とし穴

――アクセシビリティと多様性

打ち合わせの席で、ある女性スタッフから聞いた一つのエピソードから、この考察は始まりました。彼女の高校生の息子は、値の張るランニングシューズ「アディゼロ」を「みんな履いているから」とねだり、購入してもらいました。ところが実際に彼女が運動会で確認したところ、そのシューズを履いていた生徒は4人しか見つけることができませんでした。

私自身にも似た記憶があります。小学生の頃、欲しい文房具を母にねだる際に「みんな持ってる」と伝えましたが、実際に持っていたのは1〜2人でした。

この「みんな」という言葉は、日常会話だけでなく、劇場や文化政策の文脈でも「みんなのための」「誰もが」「あらゆる人」といった形で頻繁に使われます。しかし、この言葉には見過ごされがちな2つの落とし穴が潜んでいます。本稿ではその2つの落とし穴と、それぞれへの実践的な対処法を整理します。

落とし穴1:認知の落とし穴
――「みんな」は身の回りの数人にすぎない

「みんな履いてる」と言った高校生の「みんな」は、実際には4人でした。「みんな持ってる」と言った小学生の「みんな」も、実際には1〜2人でした。これは誇張や嘘というより、人間の認知に構造的に組み込まれた傾向だと考えられます。心理学でいう「合意性の錯覚(false consensus effect)」に近く、人は自分の身近な数人の行動や意見を、無意識のうちに全体の縮図として扱ってしまいます。

この傾向は、大人にも、政策や事業の設計にも同じように起こりえます。「誰もが」「あらゆる人のために」と語るとき、実際にはその人が想像できる範囲、つまり自分が会ったことのある人しか思い描けていない可能性が高いです。会ったことのない障害者や少数派の人は、言葉のうえでは包摂されていても、具体的な取り組みや事業設計、迎え入れる態度には反映されないことが多いです。

対処法:当事者に会いに行く

この落とし穴を回避するための実践として、私がアドバイザーとして関わる劇場では「当事者に会ってきてください」と依頼しています。その人と実際に会い、話をし、その人にとって舞台芸術が本当に必要かどうかを、本人とともに考えます。もし必要だと感じられたなら、そのために何が必要かを一緒に考える、という形で支援プログラムが始まります。

重要なのは順序です。支援プログラムを先に作ってから対象者を当てはめるのではなく、まず会って話すという行為を先に置きます。これにより、「みんな」という抽象を経由せず、目の前の一人の具体的な人から出発することができます。「必要だと感じたなら」ということも鍵になります。舞台芸術が万人に必要だという前提を置かず、その判断自体を本人との対話の中で行います。

このプロセスは効率よく多くのニーズを拾うための手段ではありません。むしろ目的は「情報収集」ではなく「想像力の作り直し」にあります。一度でも具体的な誰かと深く向き合うと、その後「みんな」という言葉を使うときにも、無意識にその人の顔がよぎるようになります。会えた人数が少なくても、そのプロセス自体に意味があり、一人と会うたびに「みんな」という言葉の中身がその都度更新されていきます。これは一度で完成するものではなく、関わり続ける限り、永続的に繰り返されるべき実践です。

落とし穴2:正義の落とし穴
――「誰もが使える正解」という発想

もう一つの落とし穴は、性質が異なります。認知の限界ではなく、理念の運用のされ方に関わる落とし穴です。

たとえば、あるシューズを高校生たちに広めようとするとき、本来それを選ぶのは陸上部やランニング好き、ファッションとして購入する層など、ターゲットが絞られてきます。もちろん、当初想定していなかった層が選んでくれることもあります。しかし、これを「みんな」という発想に変えてしまった途端、全校生徒に広めるための「誰もが履ける靴」「誰もが選ぶ靴」という話にすり替わってしまいます。結果として、全校生徒が同じ白い靴や上履きを履くことになり、最後は校則で指定されるという事態になりかねません。本来、一人ひとり異なるはずの趣味嗜好や使えるお金が、「みんな」という言葉のもとで均一化されてしまいます。

劇場や文化政策の現場でも、同様の現象が起きています。イベント名称を「バリアフリーイベント」「アクセシビリティ公演」とし、「誰でも参加できるやさしい公演です」と謳うことがあります。しかし、それらすべての人が同じ時間・空間で同じように鑑賞できることは、原理的に不可能です。なぜなら、ある人にとって都合のよい環境は、別の誰かにとって不都合になりうるからです。

対処法:アクセシビリティは「概念」として捉え、事業ごとにターゲットは絞る

この落とし穴を回避するために、私の支援プログラムでは次のように伝えています。アクセシビリティとは概念であり、理想に近い言葉です。一つの公演にあらゆる人が参加できる環境を作る必要はなく、また、それが原理的に不可能であることをまず知ってもらいます。そのうえで、一つひとつの事業にしっかりとターゲットを定めて取り組んでいくことが大切である、と伝えます。

これは、アクセシビリティという言葉を「達成すべき状態」としてではなく、「向かうべき方向」として再定義する発想です。理想としての概念は、個々の事業がそれぞれ違う方向からその理想に近づこうとするための指針であって、一つの事業がその理想をすべて体現しなければならないわけではありません。ある回は聴覚障害のある人のために、ある回は乳幼児連れのために、ある回は視覚障害のある人のために。それぞれの回は「みんなのため」ではなく「その人たちのため」に最適化されていてよいのです。事業群全体として見たときに、多様な人々がそれぞれ違う入り口から劇場に近づける状態ができていれば、それでよいという設計です。

ここで注意すべきは、「わかりやすさを取るか、正確さを取るか」という言葉選びの問題に矮小化してはならないということです。わかりやすい言葉を使うことと、理想(=アクセシビリティという指針)を実際に実現することは、まったく別の次元の話です。アクセシビリティという大きな指針を掲げること自体は、劇場として当然のことです。問題は、その指針をどう具体的な事業として実現するかであり、それこそが劇場職員や劇場そのものに問われている力量です。

「誰もが参加できるバリアフリー公演」「アクセシビリティ公演」といった言葉は、行政や助成金審査、一般来場者に一瞬で伝わりやすく、評価も得やすいかもしれません。しかし、伝わりやすさや評価の得やすさを理由に、安直にその言葉へと逃げ込んではなりません。それは指針を実現する努力を放棄し、指針そのものを看板として消費することに等しいと言えます。

私たちは、一段多くの理解や説明を求められることを惜しんではなりません。指針をどう解釈し、どの事業でどのターゲットに向けて何を実現しようとしているのかを、言葉で語り続け、実際の事業という態度で示し続ける必要があります。この言葉と態度の一貫性の積み重ねこそが、やがて劇場のブランディングそのものとして根づいていくのだと考えます。

多様性とは何か

本来、多様性とは「それぞれ異なるが、その異なるままに存在すること」です。しかし、「みんな」という言葉には、この多様性への意識が薄れ、誰もが同じ時間と空間を過ごすことができる、統一された一つの場を連想させてしまう働きがあります。「みんなのための」「誰もが」「あらゆる人」――これらの言葉は、排除しないという理念を語るために使われるはずが、運用のなかでしばしば「一つの型に揃える」方向へと転じてしまいます。アクセスの平等と、結果の均一化は、似て非なるものです。

まとめ

  • 「みんな」という言葉には、性質の異なる2つの落とし穴が潜んでいます。
  • 落とし穴1(認知の落とし穴):人は自分の身近な数人を無意識に全体の縮図として扱ってしまいます。会ったことのない他者は、言葉の上で包摂されていても、具体的な設計には反映されにくいです。
  • 対処法1:当事者に実際に会い、話し、必要かどうかを本人とともに考えます。目的は情報収集ではなく「想像力の作り直し」であり、繰り返し続けるべき実践です。
  • 落とし穴2(正義の落とし穴):本来ターゲットを絞るべき事業が、「みんなのため」という発想に転じた途端、「誰もが使える正解」を求める均一化に陥ります。
  • 対処法2:アクセシビリティを「達成すべき状態」ではなく「向かうべき方向=概念」として捉え、一つひとつの事業ごとに明確なターゲットを定めます。全体としての多様性は、事業群の総体によって実現します。
  • いずれの対処法にも共通するのは、「みんな」を主語にするのをやめ、「一人ひとり」「それぞれの人」を主語にして考え、語るという姿勢です。